豊臣・北条・武田...戦国大名の明暗を分けたものとは
天正19年(1591年)、豊臣政権の圧倒的な「No.2」であった豊臣秀長がこの世を去った。絶対的な利害調整役であり、政権のインフラともいうべき存在を失った豊臣政権は、いかにして混迷へと突き進んだのか。
第4回では、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を務める駿河台大学・黒田基樹教授が、「秀長亡き後の構造的限界」を検証するとともに、北条氏、武田氏、今川氏などの他大名との比較を通じ、現代の企業経営・組織人事にも直結する「後継者教育」「減税政策」「大企業病の克服」という普遍的テーマを解き明かす。(文・佐々木広人、写真・STUDIO ZEFF 加藤大樹)
秀長なき豊臣政権の混迷 ―― 「奉行層」による調整の限界
出典:絹本著色 豊臣秀長像(奈良・春岳院所蔵 / Wikimedia Commons / パブリックドメイン)
秀長の死去は、単に「優れた補佐役の喪失」にとどまらず、豊臣政権の統治インフラそのものを根底から揺るがした。秀長という一門(近親者)の中核を失った秀吉は、晩年、自分自身と「五奉行(石田三成ら)」に頼って政権運営を行わざるを得なくなった。
黒田教授は、この構造転換がもたらした決定的な限界を指摘する。
「秀長が亡くなったことで、豊臣政権には大名同士の不満や対立を調整できる存在がいなくなってしまいました。秀吉は奉行層を使って政務をこなそうとしましたが、石田三成をはじめとする奉行たちは、決して身分が高いわけではありません。
大名から見れば、自分たちより身分の低い奉行に指図されるのは、現代で言えば、取引先の社長が、相手企業の社長秘書に上から目線で命令されているようなものです。当然、強い反発や感情的な対立が生まれます。相手の大名と同等かそれ以上のステータスを持ち、対等に口を利けるのは一門しかいません。その唯一の調整機能を失ったことが、豊臣政権崩壊の引き金となったのです」
秀長亡き後、大名間の争いや不満を処理できる存在は、もはや政権内で徳川家康しかいなくなっていた。
「奉行
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北条氏にみる「一門の厚み」と「約10年の後継者教育」
出典:北条氏康肖像(神奈川県箱根町・早雲寺所蔵、Wikimedia Commons / パブリックドメイン)
豊臣家が一門の層の薄さから秀長1人に依存し、急速に衰退したのとは対照的に、世代を超えて高度な組織運営を維持し続けたのが関東の覇者・北条氏だった。
黒田教授によると、北条氏の永続性を支えた最大の要因は「約10年におよぶ後継者教育」と「組織理念の徹底」にあったという。
「戦国大名の当主は、軍事・外交・税務から帳簿の計算、年貢米の換金時期の指示まで、すべてを1人でこなすオールマイティー(多面性)な存在でなければ生き残れませんでした。こうした高度な実務能力は、一朝一夕で身につくものではありません。
だからこそ北条家では、当主が隠居した後も約10年間は実務を差配し、その傍らで後継者に戦争のやり方、税の取り方、統治のノウハウを叩き込むという『長期間のOJT』を徹底していました。北条氏綱から氏康へ送られた有名な教訓書には、『役に立たない人はいない。その人が活躍できる場所を見出すのが大将の器だ』と記されています。幼少期から周囲にちやほやされて育ち、横柄になりがちな跡継ぎの慢心を親が正し、適材適所の組織理念を叩き込むには、10年という歳月が必要不可欠だったのです」
逆に、この「育成期間」を確保できなかった大名家は、悲劇的な末路を辿っている。
「たとえば、武田信玄の急死によって急遽家督を継いだ武田勝頼や、今川義元が桶狭間で倒れた後に全権を継いだ今川氏真などは、まさに後継者教育の期間が圧倒的に不足していたと言えます。十分な経験や家臣掌握のプロセスを経ないまま当主になったため、組織をコントロールしきれず、家臣の離反や家中の混乱を招いて滅亡へと向かってしまったのです」
現場を疲弊させない「きめ細かな減税」と平時の備え
出典(左から):今川義元肖像(Wikimedia Commons / パブリックドメイン)、武田信玄肖像(江戸時代作 / Wikimedia Commons / パブリックドメイン)
後継者教育と並び、北条氏の組織運営で特筆すべきは「現場(領民)を疲弊させない持続可能な財政政策」。無能な為政者ほどすぐ税率を上げるーー黒田教授はそう指摘する。
「戦国大名は支配領域から生まれる富だけで財政を賄う『領域国家』です。過度な税を課して領民を疲弊させれば、巡り巡って国全体の生産力や軍事力が低下し、最終的には戦争に負けて国が滅びます。安易な増税は、組織を崩壊させる典型なのです。
特に北条家が治めた関東は、交易や金山による収入が乏しく、農産物の税が財政の柱でした。だからこそ北条は、水害や不作などの災害が発生すると、現場からの申請に応じて速やかに減税を実施していました。そして生産が回復すれば元の税率に戻すという、きめ細かな調整を行っていたのです。これができたのは、平時から減税分を吸収できるよう財政構造を計画的に組み立てていたからです」
この北条の姿勢と対極にあったのが、金山が枯渇した後に村へ急激な増税を行った武田勝頼だった。重税に耐えかねた領民や家臣の離反が相次ぎ、後に織田信長からも「増税のしすぎが滅亡の要因」と指摘される結果となったという。
「大企業病」を拒み、学び続けるリーダーシップ
組織の立ち上げ期から成長期、そして安定期への移行に伴い、組織が陥る罠について、黒田教授は現代の企業組織と重ね合わせながらこう語る。
「組織が誕生して2代、3代と続いて安定・固定化すると、トップは自ら決断することをやめ、合議制や保身に頼るようになります。江戸幕府で老中制ができたのも、3代将軍・徳川家光が病弱で自ら政務を執れなくなり、合議で決める仕組みを作らざるを得なかったからです。今の日本企業や政治が決められないのも、まさにこの『制度化・固定化された大企業病』の成れの果てと言えるでしょう。
しかし、創業期や有事の激動期においては、下から上がってきた書類に印鑑を押すだけの管理者は役に立ちません。トップ自らが常に情報を収集し、具体的な指示を出し続けない限り、組織は生き残れないのです」
急変する時代の中で、リーダーが「大企業病」に抗い続けるための条件とは何か。黒田教授は最後に「トップの継続的な学び」の重要性を説く。
「戦国時代や江戸時代に長く存続した大名家の当主は、10代の頃から最高の教育を受け、当主になってからも中国古典や各種資料を四六時中、読み込んで勉強し続けていました。現代でも、イノベーションを起こし成功し続けているベンチャーのトップは、常に本を読んで知識をアップデートし、会社に足を運んで末端の社員と直接対話しています。
リーダーが勉強をやめ、現場感を失った瞬間に組織の衰退は始まります。豊臣兄弟の興亡や戦国大名の足跡は、制度や過去の成功に甘んじることなく、トップ自らが学び続け、現場の情報を吸い上げるインフラを維持することの重みを、現代の私たちに突きつけているのです」