第1回 三国志時代の「人材評価」制度(前編 )
終身雇用の崩壊やAIの台頭により、人事の土台が大きく揺らぐ時代を迎えている。だが、これは現代特有のものではない。歴史を遡れば、人間と組織が直面してきた課題の本質は今も昔も大きく変わらない。過去の変革期における試行錯誤や人間模様からこそ、現代の組織課題を打ち破る「人事のヒント」が見えてくるかもしれない。
新シリーズ「歴史から読み解く人事の世界」。第1回は、三国志研究の第一人者である早稲田大学の渡邉義浩教授が登場。混迷を深めた約1800年前の中国・三国志の時代、人をいかに評価して登用するかをめぐり、権力者と地方の知識人は議論と闘争を繰り返したとされる。はたして、それはどのようなものだったのか。
第1回では、公式の評価制度「郷挙里選(きょうきょりせん)」の形骸化と、民間の「評判」が国家の仕組みをも凌駕していった実態に迫る。歴史の知恵を通して、現代の人事や組織づくりに通じる本質を解き明かしていく。(文・佐々木広人、写真・STUDIO ZEFF 加藤大樹)
民間の人事評価システム「月旦評」はコミックスでも有名なシーンだ Ⓒ横山光輝・光プロ/潮出版社
後漢を200年支えた「郷挙里選」 人材評価の基準は親孝行と清廉潔白
時は三国志の舞台の始まりでもある「後漢」の時代。歴代政権に比べて武力が弱いながらも、約200年間、政権を維持できたのだが、その核心に「郷挙里選」という強固な官僚登用システムがあったーーと渡邉教授は指摘する。郷挙里選は、地方の有能な人物を官吏(役人)として中央に推薦・登用する制度で、従前の貴族的な特権による登用ではなく、末端行政単位(郷・里)から人材を推薦させるシステムだったという。
「後漢は儒教を支配の中心に据えた国家で、官僚登用の主要ルートが郷挙里選ですが、なかでも重視されたのは『孝廉』。親孝行の『孝』と清廉潔白の『廉』です。
本当に親孝行で金に汚くないかを証明するため、彼らは親がまだ元気なうちから巨大な墓と豪華な棺を用意し、亡くなると惜しみなく金銀財宝とともに葬儀を行いました。周囲からは『あそこまで財を注ぎ込むとは親孝行者だ、金への執着もない清廉さの証だ』と評され、その評判を得た者が郷挙里選で
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「地元の民への施し」も評価の対象になったという。
「税が払えない貧しい民が出ると、地域を牛耳る有力な豪族の家がお金を立て替えてあげます。すると、民からは恩人、太守(市長)からは『清廉で地元に貢献する立派な家柄だ』という評価になります。太守は、絶大な人望を持つ豪族の息子を『孝廉』として推薦し、中央に送り出す。息子が出世すれば一族は安泰になり、民も感謝しているので反乱を起こそうとは思いません。
実は後漢は歴代の帝国に比べて、武力の弱い国家でしたが、政権としては約200年も続きました。その背景には、郷挙里選があったわけです。前提にあるのは、『親孝行で、金に汚くない、徳を備えた者こそ有能な官僚たりうる』という人間観。そこに地方豪族の権威と信頼を国家が吸い上げる機能的な『統治システム』があったことで、政権が安定したのです。
しかし、このシステムも200年の時を経て、中央の政治闘争によって内部から汚染され、後漢末期(西暦200年頃)には価値観が崩壊し始めたのです」
公式システムの崩壊と「影の政府(シャドーキャビネット)」の誕生
魏の曹操(写真左)と蜀の諸葛亮。ともに「人材評価」に後押しされて時代を駆け抜けた。出典:明代『三才図会』曹操肖像(Wikimedia Commons / パブリックドメイン)、明代『三才図会』諸葛亮肖像(Wikimedia Commons / パブリックドメイン)
後漢の後半期、中央政治は「外戚」と「宦官」による泥沼の権力闘争に突入する。後漢の皇帝は若くして亡くなることが多く、後漢後半の皇帝の平均即位年齢はわずか8歳。幼い皇帝に代わり外戚が実権を握るが、皇帝が14、15歳になると反発し、幼なじみの「宦官」を頼るようになる。皇帝と宦官が結託して外戚を打倒するも、今度は宦官が権力を独占し、また外戚が盛り返すーーという不毛なデッドヒートが繰り返された。
「たとえば、宮廷の宦官が地方の太守に『友人のいとこを推薦してくれ』と裏から圧力をかける。太守が逆らえば罷免されるため、言われるがままに『宦官のコネ入社組』を推薦せざるを得なくなり、本当の人望を集めていた豪族たちは推薦から漏れ、へそを曲げる。こうして後漢の地方支配は根底から崩壊し始めました」
この事態に憤慨した中央の官僚や学生たちが「宦官を排除しろ」と声を上げるが、弾圧されて追放された。これが「党錮(とうこ)の禁」(166年、169年)だ。この弾圧こそが、のちに公式な人事システムを無力化する「別の巨大な評価体系」を生む契機となった。
「排除された名士たちは、お金も土地も教養もあるのに官僚としての出世ルートを閉ざされ、国家の公式な官僚序列に対抗する独自の格付けランキングを作ってしまったのです。
それが、最も優れた指導者『三君』を筆頭に『八俊』『八顧』『八及』といった番付です。『三』は国家の総理大臣クラス『三公』になぞらえたもの。『総理大臣になるべきは国家公認の連中ではなく、俺たちが選んだこの先生方なのだ』というわけです。
会社に例えるなら、公式な組織図とは別に社員の間で作られるシャドーキャビネット(影の組織図)が、公式の辞令より強い説得力で共有されているような状態です。この格付けを牛耳っていたのが、民間の『人物批評家』たちでした」
民間人事評価システム「月旦評」、重視された「文化資本」の概念
国家の公式な採用(郷挙里選)が信頼を失い、人々の関心は「名士が誰をどう評価したか」という私的な名声へシフトした。その代表格が、人物批評家・許劭(きょしょう)が豫州汝南郡で毎月1日に開催した「月旦評(げったんひょう)」であった。
「許劭たちは毎月お題を変えながら若者を批評し、世間に発信していました。今でいうインフルエンサーによるトレンドランキングです。若い頃の曹操(後の三国志の覇者)が許劭のもとを訪ね、評価を頼み込んだエピソードは有名で、このとき与えられたのが、あの『治世の能臣、乱世の奸雄』という歴史に残るキャッチコピーです。
郷挙里選で『孝廉だ』と言われるのと、月旦評で『乱世の奸雄だ』とキャッチコピーで評価されるのと、どちらが高い価値を持つか。価値の逆転現象が完全に起きてしまったのです」
都に近いエスタブリッシュメント層の許劭に対し、もっと本質的な人材発掘を行ったのが儒者の郭泰(かくたい)である。渡邉教授は、許劭よりこの郭泰の行動にこそ「評価の力」の本質が現れていると語る。
「許劭は実家が裕福な名門でしたが、郭泰はそうではありませんでした。名士のリーダーたちが虐殺された『党固の禁』の際、郭泰は『後漢は終わる。次の時代を救うのは今いる有能な若者たちだ。彼らを見出すことこそ私の使命だ』と使命感に燃えたのです。
そうして郭泰は全国を回る『人材発掘の旅』に出ました。豪族たちはこぞって息子を評価してもらおうと大歓迎するのですが、名門で大富豪の袁隗(えんかい)などは最高の贅沢でもてなしても、郭泰にほとんど話をしてもらえませんでした。金や権力と、乱世を救う有能さとは全く別物だったからです。
一方で郭泰は、同郷の貧しい医者の息子・黄憲(こうけん)を何度も訪ね、泊まり込んで夜通し語り合った末、『この男の器は底知れないほど深い』と絶賛し、その存在を世間に広めました。郭泰らは『自らの評価で人物の社会的価値を作り出す』という自覚を持ち、民間に勝手に『人事部』を作って回していた格好です」
なぜ名士たちの「名声」ネットワークはこれほど力を持ったのか。乱世という不確実な時代を生き抜く合理的な資産防衛のロジックがあった。それが「文化資本」という概念だ。
「乱世になると、土地や財産といった『経済資本』は戦争で一瞬にして奪われます。しかし、学問、教養、人脈、そして『名士からお墨付きをもらった』という名声は誰にも奪えず、持って逃げられるのです。
例えば、後に蜀の宰相となる諸葛亮が、戦火を逃れて南の荊州へ移住した際、彼は難民同然でした。それなのに、現地のトップエリートたちと対等に付き合い、劉備(後の蜀の皇帝)から『三顧の礼』で迎えられた。教養と『名声のネットワーク』を持って逃げていたからです。
名声という無形の資産は、国家権力さえ手出しできない最強の防衛資本でした。しかし、この評判ネットワークには『属人性と、派閥化による分裂性』という致命的な弱点もありました」
二重の評価社会が残した課題
国家公認の「郷挙里選」が形骸化し、民間の「月旦評」が社会を動かすようになった後漢末期。この「二重の評価社会」は弾圧への「抑止力」として機能した一方、客観的基準を持たないため深刻な既得権益化を招くことになる。
「名士たちの人物評価は結局主観であり、身内のひいき、お友達人事になりやすい致命的な欠陥を抱えていました。
例えば、隣同士の豫州汝南郡(曹操のライバル・袁紹の本拠地)と豫州潁川郡(曹操の参謀・荀彧の本拠地)の間では『どちらが優秀か』という不毛な『汝潁優劣論(じょえいゆうれつろん)』が繰り広げられ、孔子の二十世孫の孔融でさえ『我が汝南に比べ、潁川の連中は全然ダメだ』と露骨な地域マウンティングを書き残しているほどです。
つまり、評判社会は分裂と恣意性を含み、客観的な人事制度にはなり得ません。では、この属人的な評判を国家の仕組みへどう統合するのか。君主自らが評価権を力で奪い返せるのか。ここから、曹操による『唯才主義(ゆいさいしゅぎ)』という人事権の回収プロセスが始まっていくのです」
第2回 三国志時代の「人材評価」制度(後編) へ続く。