「豊臣兄弟」はなぜ勝者になり得たのか
現代の企業を悩ませる「右腕・COO人材の不在」や「現場と経営層の間の情報不全」という課題。実は約450年前の戦国時代、天下統一を果たした豊臣政権の急速な成長と組織的安定を陰で支えたのも、豊臣秀長という類稀な「No.2」の存在があった。
第3回では、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を務める駿河台大学の黒田基樹教授が、史実に基づく「秀吉・秀長ユニット」の実態と、現代のスタートアップ・ベンチャー経営にも通じる組織マネジメントの構造を解き明かす。(文・佐々木広人、写真・STUDIO ZEFF 加藤大樹)
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江戸時代の作劇を剥ぎ取る ―― 研究が解き明かした秀長の実像
出典:絹本著色 豊臣秀長像(奈良・春岳院所蔵 / Wikimedia Commons / パブリックドメイン)
現代のビジネス界では、豊臣秀吉の天下統一は「人たらしの天才による人心掌握」として語られ、弟の秀長についても「温和な性格で兄の暴走を抑えた補佐役」といった通俗的なストーリーで語られがちである。
しかし、NHK大河ドラマの時代考証を務める黒田基樹教授は、こうした従来の見方を一蹴する。
「実は、豊臣秀長という人物の具体像がわかってきたのは、今回の時代考証に当たって本格的な調査を進めたからです。
…
しかし、史料を丹念に洗っていくと、秀長は軍事行動で常に別編成軍の総大将を務め、配下の大名・国衆への『取次ぎ(外交・利害調整)』を一手に引き受け、さらには秀吉の側近や奉行層に対しても調整や直言を行っていたことがわかってきました。秀長は単なる『気のいい補佐役』などではなく、軍事・外交・内政の全般にわたってきわめて高い実務能力を発揮した、政権の構造的な要だったのです」
戦国初期という、制度やマニュアルが存在しない環境において、豊臣政権はいかにして実利的な組織構造を構築したのか。黒田教授は、この豊臣兄弟の姿を「現代の創業期ベンチャー企業」と重ね合わせる。
「戦国大名の組織運営は、現代で言えば創業期のベンチャー企業に非常によく似ています。組織がまだ出来上がっていない段階では、定型的なルーティンワークは存在しません。だからこそ、一人の人間が軍事から外交、領国統治、さらには税の取り方や会計までを横断して判断できるオールマイティーな能力を持っていなければ、勝ち残ることができなかったのです」
「対等なパートナー」ではなく「厳格な主従関係」
創業期の兄弟経営と聞くと、現代のスタートアップのように「役割分担をした対等な共同経営者」をイメージしがちだが、黒田教授は両者の厳格な立場の違いを強調する。
「世間では『秀吉と秀長の素晴らしい役割分担』のように見られがちですが、実態はどこまでも『主君と家臣(上司と部下)』という厳格な主従関係が基本です。秀長は一門(近親者)であっても秀吉に仕える臣下であり、独断で意思決定を行う権限はありませんでした。最終的な決断権は、すべて当主である秀吉が一手に握っていたのです」
では、なぜ秀長という臣下に、これほど膨大な実務と権限が委ねられたのか。その背景には、戦国大名という「領域国家」特有の構造的信頼が存在していた。
「戦国期において、裏切りのリスクがなく、当主の身代わりになり得る存在は一門しかいません。当主の身代わりとして別編成軍を率い、大名との交渉に立てる近親者がいたからこそ、組織は急速に拡大できたのです。これは武田家など他の戦国大名にも共通する基本構造ですが、羽柴(豊臣)家の場合は秀吉という強烈なトップに対し、その身代わりを完璧にこなせる唯一無二のインフラとして秀長が存在していました」
失敗ゼロの「取次ぎ」と課題解決をセットにした上申
出典:重要文化財『豊臣秀吉像』部分(京都・高台寺所蔵 / Wikimedia Commons / パブリックドメイン)
史料の分析から浮かび上がった秀長の実務機能は、主に「軍事」「取次ぎ」「直言」の3つに集約される。
「天正5年(1577年)の中国攻めにおいて、秀吉が播磨を進む裏で秀長は但馬へ侵攻し、九州攻めでも秀吉本軍とは別に日向方面へ進んで島津本軍と正面から対戦しました。秀長は軍事行動の総大将を最後まで任され、大きく負けることなく完遂する抜群の現場指揮能力を持っていたのです」
そして何より重要だったのが、諸大名や国衆との外交・利害調整を担う「取次ぎ」の機能である。
「取次ぎの失敗は、相手を怒らせて即座に戦争や離反につながるため、現代の外交官以上に責任が重大でした。織田信長の場合、頼れる一門を欠いていたため取次ぎを家臣に任せるしかなく、双方のすり合わせがうまくいかずに荒木村重らの離反を招く一因となりました。これに対し、秀長が担当した数多くの取次ぎにおいては、一度の失敗例も確認されていません。諸大名と親密な関係を築き、絶妙な利害調整を完璧にこなしていたのです」
さらに、秀長はトップ(秀吉)に対する独自のコミュニケーション能力を備えていた。
「石田三成に代表される奉行職は秀長に比べて身分が低く、秀吉の機嫌を損ねるような不都合な報告はしにくく、『この案件は私は取り次げません』とならざるを得ない側面があったのです。しかし、弟である秀長は秀吉に対して直接、耳の痛い事実や意見を伝えることができました。しかも秀長のすごいところは、単に問題を報告するのではなく、『私が現場でその処理を担当します』という解決策とセットで上申できた点にあります」
1日2回の徹底した情報共有と、機敏な意思決定
秀吉と秀長による「創業ユニット」の強みを支えたのが、驚くべき情報共有(報告・連絡・相談)の密度であった。
「秀吉と秀長は、1日に2回も手紙を遣わし合うほど、現場の状況や戦況を詳細かつ頻繁に報告し合っていました。秀長から上がってくる現場情報の質が非常に高かったからこそ、トップの秀吉は『柴田勝家が必ずここに進軍してくるから防げ』などと、将来を予見した的確な指示を出すことができたのです。これは北条氏政など成功した戦国大名にも共通していると言えます」
現場への適切な権限委譲と、トップによる機敏な判断変更も、この情報共有があってこそ成立していた。
「四国攻略後の拠点選定でも、秀吉は図面を見ながら候補地を示しつつ、『おまえが実際に現地を見て、一国の拠点としてふさわしいか最終判断を行え』と秀長に現場の判断を委ねています。一方で、状況が変わればトップは即座に命令を変更しますが、部下が独断で命令を変えることは厳しく禁じられていました。秀長も一度、全軍での城攻め指示と異なる軍分割を行った際、秀吉から『聞いてない』と激しく叱責された記録が残っています。超高密度の連絡体系があったからこそ、トップの迅速な決断と現場の統制が両立していたのです」
現代人事への普遍的な問い
秀吉と秀長という最強の「創業ユニット」が果たした役割について、黒田教授は最後にこう締めくくる。
「組織が安定して数代続くと、トップは自ら判断することをやめ、合議制や保身に頼る『大企業病』に陥りがちです。しかし、環境変化が激しくマニュアルのない創業期や有事においては、書類に印鑑を押すだけの管理者は役に立ちません。
経営トップに対し、配慮して耳障りの良いことしか言わないイエスマンではなく、不都合な真実をソリューション付きで直言し、泥臭い現場調整を自ら買って出る。豊臣秀長という存在は、変化の時代を生き抜く組織に必要な『No.2インフラ』の究極の姿を示していると言えるのではないでしょうか」