第2回 三国志時代の「人材評価」制度(後編)
現代の企業を悩ませる「評価基準」や「評価権の所在」という課題は、実は約1800年前の三国志時代にも、覇者・曹操らが死闘を繰り広げたテーマだった。第2回では、早稲田大学の渡邉義浩教授が、曹操の「唯才主義」の真実と、能力と道徳の妥協から生まれた「九品中正制度」を解説する。(文・佐々木広人、写真・STUDIO ZEFF 加藤大樹)
三国志時代の「人材評価」制度(前編)はこちら
曹操の「唯才主義」の真実 ―― 単なる能力主義ではない「宣戦布告」
前編 では、後漢末期に公式の人事制度(郷挙里選)が形骸化し、名士たちの主観的な「評判」が実質的な人事権を握る「二重の評価社会」へ移行したプロセスを追った。
この「名士の評判」に牛耳られた社会に対し、国家(君主)の手元に「人を評価する権利」を取り戻そうとしたのが、三国志の覇者・曹操(そうそう)だった。
曹操は「唯才主義(唯才是挙)」を掲げ、「唯才令」を布告した。このため、曹操は「乱世を生き抜く合理的な成果主義者」などと、現代のビジネス界では美化されがちだが、渡邉教授はその見方を一蹴する。
「これは『うちは成果主義でいきますよ』という生易しい採用キャンペーンではなく、儒教的な名士社会に対する宣戦布告です。
儒教社会の『人として正しい人(徳がある)=有能な官僚』という前提に対し、曹操は『人格(徳)』と『能力(才)』を完全に切り
…
これは、名士たちが築き上げた『親孝行だから立派だ』『清廉だから優秀だ』という主観的な道徳評価のネットワークを根底から否定する行為でした。
ただ、この『唯才令』が布告されたタイミングを見ると、曹操の本当の狙い、すなわち「人事評価権の回収」が浮かび上がります。曹操は210年、214年、217年の計3回、唯才令を出していますが、それぞれ誰を排除した直後だったかを見てみましょう。
1回目の直前には、儒教の最高権威・孔子の二十世孫・孔融(こうゆう)を殺害。2回目の直前には儒教名士の象徴・荀彧(じゅんいく)を対立の末に死に追い込み、3回目の直前には人事担当の崔琰(さいえん)を処刑、毛玠(もうかい)を罷免しています。
つまり曹操は、反発する儒教名士の象徴やキーパーソンを力で排除したうえで、『評判ではなく自分が定めた基準(才)で人を評価する。人事権を君主の元に回収する』と言い放った。これが唯才主義の真実です」
曹操の挫折と「評価基準」の難しさ ―― なぜ「才」だけでは勝てなかったのか
曹操が詩文を重んじるシーンはコミックスのファンならよく知るシーンだろう Ⓒ横山光輝・光プロ/潮出版社
しかし、名士たちを力でねじ伏せた曹操も、「才」のみを客観的な人事制度として定着させることには挫折した。名士の「口コミ」に代わる評価軸として「文学(詩文)」を導入し、そこから候補者の「志」を見定めようとしたが、このアプローチもまた限界に突き当たる。
「曹操にとって文学(詩)とは、単なる美しい感情を歌うポエムではなく、『この混迷する世界をどう考えるか』『これからどう新しい世を切り拓くか』という当人の『志』を問うための手段でした。
曹操自身、優れた詩を残しています。『歩出夏門行』では『老いた千里の馬(老驥)は、厩に伏していても志はなお千里の彼方を駆けている』と歌いました。曹操は屯田制や新税制を導入したものの、生存中に中国を統一することはできませんでした。しかし、彼の歌った『志』は後世、隋や唐の均田制や租庸調制の礎になっていく。それこそが『志』なのだと曹操は示しているのです」
曹操はこうした文学を通じて、受験生が知識を持っているかではなく、乱世に向き合う高い志を持っているかを見極めようとしたという。
「しかし、この『才と志のみ』を評価する唯才主義は、最終的に名士たちの『徳』の論理を打破できませんでした。なぜなら、『能力が高くて人柄も良い人』と『能力が高くて人柄が最悪な人』がいれば、あえて後者を選ぶ理由はないからです(笑)。
つまり『徳』をゼロにして『能力』だけで客観的に評価するシステムは、実務的にも論理的にも不可能でした。曹操個人がカリスマとして君臨する間は『有能な悪人』を使いこなせても、二代目、三代目になると人事制度は再び『徳』を重んじる名士の論理へ逆襲されることになります」
九品中正制度の誕生 ―― 「才」と「徳」の妥協が生んだ、精緻なるキャリアシステム
父・曹操の後を継いだ曹丕は人事制度として「九品中正制度」を創設した。親子2代で挑んだ人事制度改革の行方は? 出典:唐・閻立本『歴代帝王図巻』曹丕肖像(ボストン美術館所蔵 / Wikimedia Commons / パブリックドメイン)
曹操が没し、息子の曹丕(そうひ)が後漢から禅譲を受けて「魏」を建国する際、新しい人事制度が生まれた。それが後世の中国官僚制を支配する「九品中正制度」。提案者は曹操に殺された荀彧の娘婿・陳羣(ちんぐん)だった。
九品中正制度は、一見「地方の評判を国が公認するキャリア制度」だが、その実態は曹操の「才」と名士たちの「徳(評判)」がせめぎ合った末の、極めて政治的な「妥協の産物」であった。
「後継者争いで勝利した曹丕は、自分を支持した名士たちに大きな『借り』があった。陳羣が提案した九品中正制度は、名士たちが私的に行っていた人物評価を、国家の公式な官僚登用システムに丸呑みで組み込む解決策でした。
その仕組みは精緻でした。郷挙里選では地方長官(太守)が推薦権を持ち、行政と人気が一体化していましたが、九品中正制度では、郡ごとに行政から独立した人事専門官『中正官(ちゅうせいかん)』を設置したのです。
中正官は地元の候補者のもとを訪問し、身辺調査を行い、二つの評価をセットで与えます。
一つ目は『郷品(ごうひん)』。一品から九品までの九段階の格付けで、一品は皇太子クラス専用のため実質最高は『二品』です。
二つ目は『状(じょう)』。才能や人柄をわずか四文字で表現するキャッチコピーで、天才には『天才逸群(てんさいいつぐん)』といった鮮烈な四文字が与えられました。
この郷品は中央でのスタート時の役職に直結しました。基本ルールは『郷品マイナス四』。最高評価『二品』なら『六品官』からスタートでき、これは財務省でいえば三十歳で地方税務署長に就く事務次官候補の登竜門。ここから宰相まで上り詰める資格を得ます。しかし低い郷品しか得られなければスタート時の官職が低く、一生現場仕事で終わる。どれほど努力しても中央のエリートには絶対なれず、キャリアの入り口で一生の上限が決まってしまうシステムでした。
詩人・陶淵明(とうえんめい)が低い郷品をつけられ、出世の見込みのない仕事に嫌気がさして『こんな仕事は辞めて田舎に帰る!』と『帰去来辞(ききょらいのじ)』を歌ったのは、まさにこのシステムの犠牲者だったからです。
さらに、曹操が排除しようとした儒教的道徳(親孝行)が、九品中正制度では見事に逆襲を果たしていました。
『三国志』の著者・陳寿(ちんじゅ)は有能でしたが、親の喪中に薬を飲んだことが親不孝とみなされ、政敵に告発されて郷品を下げられ、長く出世の道を閉ざされました。
曹操が『徳を外して才を見よう』としたにもかかわらず、九品中正制度は『才能は見るが、親への態度(徳)を何より重視する』というルールへ回帰した。これは名士側の『論理的勝利』を意味したと言えます」
制度の硬直化と、現代の人事へ引き継がれる「評価の普遍性」
名士たちの勝利で完成した九品中正制度だが、次第に硬直化を招く。中正官の評価は高度な主観的スキルを要したため、文化資本を持つ「名士(のちの貴族階級)」に独占され、魏の後継政権である晋(しん)の時代には完全に既得権益の温床と化した。
「九品中正制度が崩壊していったのは、中正官が既得権益化し、評価基準が『家柄』へすり替わってしまったからです。
晋の時代になると世襲可能な爵位制度(五等爵)が導入され、『代々爵位を持つ家の息子は、精査するまでもなく自動的に二品』というルールが確立してしまいました。本人の能力や徳は一切関係なく、生まれだけで宰相ポストが確約されるのです。これが『上品に寒門無く、下品に勢族無し』と当時猛烈に批判された、完全な『門閥貴族社会』の誕生です。曹操が血を流して戦った『人事権の回収』という試みは、ここで完全に骨抜きにされました。
皇帝の権力が弱く貴族ばかり強い晋は、一度中国を統一したにもかかわらず内乱(八王の乱)であっという間に滅び去ります。生まれながらの貴族には、国家のために戦う意思など微塵もなかったからです。この『中正官の主観と既得権』を解体しようと、隋や唐の時代に生み出されたのが『科挙(かきょ)』です。主観的な評価を排除し、ペーパーテストの点数だけで人を評価する画期的な発明でした。
科挙が真に完成し人事権が君主の元へ帰還したのは数百年後の北宋の時代。最終面接を皇帝自ら行う『殿試(でんし)』が確立し、合格官僚は「恩人は皇帝陛下その人だ』という自覚から、国家へ絶対的なロイヤリティを誓うようになりました。
北宋は軍事的に弱い国でしたが、この完成された科挙制度(文治主義)のおかげで長い安定と繁栄を維持しました。国が滅びる最後の瞬間まで、皇帝に恩義を感じるエリートたちが命を懸けて戦い抜いたからです」
人事の普遍的な問いを、現代に生きる私たちへ
後漢の「郷挙里選(徳)」から、曹操の「唯才主義(才)」、魏の「九品中正制度(妥協)」、そして宋の「科挙(客観の完成)」へ。中国の人事変遷の歴史を、渡邉教授は最後にこう結んだ。
「この人事の死闘の歴史から、現代の私たちが直接的な教訓を引き出す必要はありません。馬に乗って槍を振る時代と、AIが稼働する現代とでは前提条件が違いすぎます(笑)。
ただ、歴史を鏡として見ると、現代の人事にも通底する『普遍的な問い』が見えてきます。それは『評価権を誰が握るのか』『評価基準をどう設定するのか』という問いです。
人事の本質は、主観(徳・評判)と客観(才・成果)のせめぎ合いのなかで、自社がどちらの軸を必要とし、誰に評価の権限を委ねるべきかを、絶えず苦悩し設計し続けるプロセスにあるのではないでしょうか。
三国志の英雄たちの死闘の歴史は、そのことの重みと難しさを、私たちに鮮やかに教えてくれています」