「経営戦略の中身は知っています。こんなに忙しいのに、新規事業に力を入れる戦略っておかしいですよね?」。ある企業の社員から、こんな質問をされた。
この企業では、経営層が新規事業の強化を重点戦略として掲げ、繰り返し社員に説明していた。ところが、現場からはこうした疑問が出てくる。経営層は「これだけ説明しているのに、なぜ理解してもらえないのか」と感じ、現場は「方針は分かるが、どうも納得できない」と感じている。
経営層は伝えたつもり、現場は分かったつもり。それなのに、なぜか話がかみ合わない。そして、こうしたすれ違いは多くの企業で起きている。
前回は、人的資本経営において人事が「経営戦略の実装者」になる必要性と、戦略実装を阻む「5つの断絶」を紹介した。今回は、その出発点となる「意味の断絶」に焦点を当てる。
第一回はこちら
同じ戦略なのに、見えている景色が違う
「意味の断絶」とは、経営層が戦略に込めた意図や目的が、現場に正確に伝わっていない状態を指す。言葉は届いていても、受け取る意味が違うのだ。
例えば「既存事業から新規事業への転換」という経営戦略。経営層は、現在の事業で生み出した利益を成長領域に投資し、将来の収益構造を変えたいと考えている。しかし現場では、「今の事業を重要視していないのか」「これまでの努力は評価されなくなるのか」と受け止められることがある。
「高付加価値型ビジネスへの転換」も同様だ。経営層は、価格競争から脱却し、顧客の課題解決によって収益性を高めたい。しかし現場では「もっと高い商品を売れということか」と受け取る。経営層にとっては事業モデルの転換でも、現場には営業目標の引き上げに聞こえてしまう。
こうした違いは、社員の理解力や意欲の問題ではない。経営層は市場環境、競争構造、将来の収益を見ている。一方、現場は目の前の顧客、日々の業務、今期の目標数字を見ている。立場が違えば、同じ言葉でも受け取り方が違うのは当然だ。
ここで人事に考えて
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経営にとっての「改革」が、現場には「喪失」に映る
経営層が成長に向けて進める改革が、現場では自分たちの仕事を否定するものとして受け止められることもある。
米国の市場調査会社の営業改革が、ハーバード・ビジネス・レビューで紹介されている(Cotteleer et al., 2006)。この会社では、研究員が営業活動も担っていたが、専任の営業担当者を設けようとした。経営層から見れば、研究員が調査に集中でき、営業活動も組織的に進められる合理的な改革だ。
ところが研究員たちは、「大切な顧客との関係を奪われる」「質の高い仕事ができなくなる」と受け取った。顧客との直接的な関係こそが質の高い仕事につながるという信念があったからだ。経営層が合理性を説明しても、その価値観に向き合わなければ納得は得られない。私は、この事例に「意味の断絶」の本質が表れていると考える。
AIを活用した業務改革でも同じだ。経営層は「AIに定型業務を任せ、人は付加価値の高い仕事に集中しよう」と考える。しかし現場では「自分たちの仕事がなくなるのか」「これまでの経験は必要なくなるのか」と受け取るかもしれない。経営層が未来への可能性を語るとき、現場は自分たちの存在価値が喪失することを心配している。
人事は、こうした反応を単なる抵抗と捉えてはいけない。社員が何を大切にし、何を失うと感じているのか。そこに目を向けることが、意味の断絶を埋める第一歩になる。
「伝えた」と「伝わった」は、まったく違う
戦略が実装されない企業には共通する傾向がある。戦略を「伝えること」に力を注ぐ一方、「どう受け取られたか」を十分に確認していないことだ。
例えば経営層が「AIを組み込んで、抜本的に業務を改革する」と打ち出したとする。目指すのは、人が付加価値の高い業務に集中できる組織への転換だ。
ところが部門長は「AI活用を推進する」と説明し、課長は「積極的に生成AIを使おう」と伝え、社員は「ひとまず議事録にAIを使えばよい」と理解する。最後には、業務構造の改革が便利なツールの活用に変わっている。
それぞれ間違ったことをしているわけではない。しかし、経営層が描いた未来とは大きな隔たりがある。AIの利用率が上がっても、戦略が実装されたとは限らないのだ。
必要なのは説明会を増やすことではない。経営層の意図と現場の理解を確かめ、認識の違いを埋めることだ。
人事が進める「戦略翻訳」の5ステップ
人的資本経営では、経営戦略の実現に必要な人材や能力を明らかにし、育成や配置につなげることが求められる。しかし、その前提として、社員が経営戦略の意味を理解し、納得している必要がある。
私たちジェックが重視しているのが「戦略翻訳」というメソッドだ。経営層が掲げる戦略を、現場が「なるほど、だから必要なのか」「自分たちにも関係がある」と納得できる言葉に変える。単に難しい言葉を簡単にすることではない。経営と現場の認識の違いを埋め、戦略を自分たちの仕事と結びつけることだ。
人事が経営層や管理職と協力し、次の5つのステップで進める。ここでは「既存事業への依存から、新規事業による成長への転換」という戦略を例に考えたい。
STEP1:戦略の意図をつかむ
まず人事は、経営層に「なぜ今、新規事業への転換が必要なのか」を確認する。既存事業の市場は5年後にどう変化するのか。今の収益構造にはどんなリスクがあるのか。その背景を現場の社員に分かる形で伝え、危機感を共有する。
STEP2:認識のズレを見つける
次に人事は、現場の社員に「この戦略をどう感じたか」と問いかける。経営層は「将来の成長基盤をつくる」と考えていても、現場では「既存事業が軽視される」「仕事が増える」と受け取っているかもしれない。その違いを把握し、経営層と共有する。
STEP3:現場の仕事につなげる
認識の違いが分かったら、人事は管理職と協力し、現場の社員が「今の仕事が新規事業にどうつながるか」を考える場をつくる。例えば、既存顧客の未解決課題を洗い出し、新しい事業の可能性を話し合う。「自分たちの経験が生かせる」と気づくことが重要だ。
STEP4:現場の言葉で表現する
仕事とのつながりが見えたら、現場の社員に「自分たちは新規事業にどう貢献できるか」を一文でまとめてもらう。例えば「既存顧客の未解決課題を見つけ、新しい事業の種を生み出すこと」。会社の戦略が自分たちの戦略に変わり始める。
STEP5:意味の共有を確認する
最後に人事は、現場がまとめた内容を経営層の意図と照らし合わせる。新たな収益の柱づくりにつながっているか。単なる既存商品の販売強化になっていないか。違いがあれば話し合い、修正する。大切なのは同じ言葉ではなく、同じ方向を目指すことだ。
戦略翻訳は、経営と現場が対話を重ね、戦略の意味を共有するプロセスだ。経営層から意図を引き出し、管理職と現場の対話を進め、その声を経営層に戻す仕組みをつくることが人事の役割になる。
人事は、戦略を伝える部門から、戦略を動かす部門へ
人的資本経営では、経営戦略と人材戦略の連動が求められる。しかし、両者を計画上で結びつけるだけでは、戦略は実現しない。その意味が現場に伝わって初めて、人材戦略も動き始める。
例えば「生産性を高め、付加価値の高い仕事へ人材シフト」という戦略。経営層は業務を見直し、社員が新しい価値を生み出す仕事に集中できるようにしたい。しかし現場では「今の仕事を減らさず、新しい仕事まで増やすのか」と受け取られるかもしれない。このままリスキリングや配置転換を進めても、期待する変革にはつながりにくい。
ここで人事に求められるのが、経営と現場をつなぐ役割だ。現場の不安に耳を傾け、「何をやめ、何を減らし、どの仕事に人材を振り向けるのか」を経営層と議論する。そのうえで、必要な人材育成や配置につなげる。
戦略翻訳は経営の考えを現場に伝えるだけではない。現場の声を経営に戻し、戦略の進め方や人材戦略を見直す機会にもなる。人事は部門長や管理職と協力し、経営と現場が一緒に考える場をつくる必要がある。
人的資本経営を人事施策の充実や情報開示で終わらせてはならない。経営戦略をまずは現場の理解につなげること。その中心的な役割を担うことが、人事が「経営戦略の実装者」になる第一歩だ。
意味が伝わっても、まだ組織は動かない
戦略翻訳によって意味の断絶が埋まると、「なぜ今、変わる必要があるのか」という疑問が、「自分たちの仕事も変えていこう」という理解に変わる。しかし、納得しても、それだけで仕事が変わるわけではない。
例えば「商品を売る会社から、問題解決を支援する会社へ」という戦略。営業担当者も必要性は理解している。しかし顧客から業務改善の相談を受けたとき、「これは営業の仕事なのか」「専門部署に任せるのか」「どこまで関わるべきか」と迷ってしまう。
戦略の意味は分かっていても、自分の役割が明確でなければ、従来の「商品を売る営業」に戻ってしまう。つまり、戦略の意味を共有した次には、「その戦略を実現するために、自分たちは何を担うのか」を明確にする必要がある。
意味が分からなければ、人は動こうと思わない。しかし、意味が分かっても、役割が変わらなければ、行動は変わらない。
次回は、戦略が変わっても社員の役割認識が変わらない「役割の断絶」を取り上げ、それを乗り越える「役割再定義」について具体的な事例とともに考えていきたい。
出典:Cotteleer, M., Lee, F., & Inderrieden, E. (2006). Selling the sales force on automation. Harvard Business Review, 84(7/8), 18–22.