「エンゲージメントをどう高めるか」「来期は管理職研修をどうするか」「次世代リーダーを何人育成するか」。人事部門では、毎年さまざまなテーマが議論されている。どれも重要なテーマだが、企業の人事担当者に対して、私は時々こんな質問をする。
「その施策は、経営戦略のどの部分を実現するためのものですか?」。
すると、答えが出るまでに少し間が空くことがある。人事施策としては間違っていない。でも、それが経営戦略の実現とどうつながっているかを問われると、途端に説明が難しくなる。
私は、ここに日本企業の人的資本経営における大きな課題があると考えている。そして同時に、これは人事部門にとって大きなチャンスでもある。
2026年3月「人的資本可視化指針」が改訂された。今回の改訂で改めて強調されているのが、経営戦略と人材戦略の連動である。経営戦略の重要なテーマについて「あるべき組織・人材の姿」を描き、現状とのギャップを捉え、そのギャップを埋めるための人材戦略や人的資本投資を検討する。これは単なる「人的資本情報をどう開示するか」という話ではない。「この会社は、戦略を実現するために、人と組織をどう変えるのか」という経営そのものの問題である。
だとすれば、人事部門の役割も変わらなければならない。私はこれからの人事には、採用、配置、育成、評価といった人事機能を担うだけでなく、「経営戦略の実装者」という役割認識が必要になると考えている。
「戦略はある。しかし、現場が変わらない」
私が経営する株式会社ジェックは、組織変革や人材開発を専門とするコンサルティング会社だ。近年は「戦略の実装」をテーマに多くの企業のご支援をしている。
長年のコンサルティング経験の中で、何度も目にしてきたのが、「戦略はあるのに、現場が変わらない」という現象である。
例えば、ある企業で「モノ売りからソ
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こうしたケースは決して珍しくない。DXを掲げても、仕事の進め方が変わらない。顧客志向を掲げても、会議では社内事情ばかり話している。イノベーションを掲げても、失敗すると評価が下がる。人的資本経営を掲げても、人材育成は従来の階層別研修のまま。経営が戦略を打ち出すことと、それが現場で実行されることの間には、想像以上に大きな距離がある。
ある機械メーカーでは、「製品を売る会社から、顧客の課題解決を支援する会社へ」という戦略を掲げた。ところが、人材育成の内容は従来通り、製品知識や営業スキルが中心だった。評価制度も売上や受注件数が中心で、顧客の課題を深く捉えたか、社内外を巻き込んで解決策をつくったかといった行動は評価されない。これでは、現場に「顧客課題を起点に考えろ」と言っても、従来の行動に戻るのは当然である。戦略と、人材育成、評価、マネジメントがつながっていないからだ。
なぜ、このようなことが起きるのか。私は、戦略と現場の間にいくつかの「断絶」が存在するからだと考えている。
戦略実装を阻む「5つの断絶」
私たちは、戦略が現場で実践されるまでに生じる断絶を、大きく5つに整理している。
1つ目は「意味の断絶」。
経営が語る戦略の意味が、現場の仕事の意味に翻訳されていない。「顧客価値を高める」「DXを推進する」「付加価値型ビジネスへ転換する」。経営側には意味が分かっていても、現場からすれば「なぜこの時期に、この戦略か?」「何のためにやるのか」が分からない。経営の言葉が、現場にとっての仕事の意味にまで翻訳されていない状態である。
2つ目は「役割の断絶」。
戦略が変わったのに、社員の役割認識が変わっていない状態だ。あるアフターサービス部門の例を挙げよう。従来、サービス担当者の役割は「機器を安定して動かす」ことだった。故障を直す、点検する。それが良いサービス担当者だった。しかし会社の戦略が、単なる保守から「顧客の業務改革を支援する」方向へ変わったとしたら、サービス担当者の役割も変わる。「修理・点検をする人」から、「顧客との接点から業務課題を発見し、改革を支援する人」への転換である。この役割の再定義がなされないまま、「もっと顧客価値を高めよう」と言われても何も変わらない。
3つ目は「行動の断絶」。
役割を理解しても、それが具体的な行動にならない。先ほどのサービス担当者なら、「顧客の課題を把握する」という抽象的な言葉だけでは足りない。例えば点検終了後、「ほかに業務上、お困りのことはありませんか」と質問する。そこで得た情報を営業担当者と共有する。そこまで具体化して、初めて戦略は日々の行動になる。
4つ目は「実践の断絶」。
行動内容が分かっても、現場で実践できるかどうかは別だ。研修を受けた人は「明日からやります」と言う。研修後アンケートの満足度も高い。しかし一カ月後には元に戻っている。これは本人の意欲が低いからとは限らない。忙しい現場に戻れば、長年身についた行動に引っ張られる。新しい行動を試しても、うまくいかないこともある。だからこそ、実践し、フィードバックを受け、もう一度試すという反復が必要になる。
5つ目は「進化の断絶」。
個人が新しい行動を始めても、上司のマネジメントや評価、会議、組織の仕組みが従来のままであれば、行動は定着しない。「顧客課題を聞いてこい」と言いながら、上司が売上数字しか確認しない。「挑戦しろ」と言いながら、失敗すると評価を下げる。これでは、社員は経営のメッセージではなく、日常のマネジメントに適応する。
戦略実装とは、戦略説明会を開催することでも、研修を実施することでもない。断絶を乗り越え、戦略を役割、行動、実践、マネジメントまで一貫してつなぐことなのだ。
「5つの断絶」をつなげるのは人事しかいない
ここで、人事部門の出番だ。経営戦略を実現するには、最終的に「人の行動」が変わらなければならない。そして、人の行動を変えるためには、役割、能力、配置、育成、評価、マネジメント、組織文化までを連動させることが必要だ。まさに、人事の専門性が活かされる領域だ。
多くの企業の人事部門では、経営から戦略が下りてきた後で、「では、どんな評価制度にするか」「どんな研修を実施するか」と考えることが多かった。
しかし、これからは違う。
経営戦略を議論する段階から、「戦略実現に必要な組織能力は何か」「どんな役割が求められるか」「具体的にどんな行動が必要か」「現在の人材とのギャップは何か」「採用、配置、育成、評価をどう変えるか」を問うことが必要だ。
例えば、経営戦略として「新規事業を生み出す」と掲げるのであれば、人事部門は単に「新規事業研修」を企画するだけでは足りない。新しい事業を生み出す人材に期待する役割、部門を越えた人材の配置、挑戦や失敗の評価、挑戦を後押しするマネジメント等を経営と議論する必要がある。こうした点まで考えなければ、「新規事業を生み出す」は単なる掛け声で終わる。
人事がこのような問いを経営と共に考えるようになれば、人材戦略は経営戦略の「後工程」ではなくなる。人材戦略は経営戦略の一部になる。
「研修をどうするか?」から考えない
戦略実装という観点で人材開発を考える際、私が特に重要だと思っていることがある。それは、いきなり「研修をどうするか?」から考えないことだ。
私たちが戦略実装を支援する際には、大きく5つのメソッドで考える。順序としては①戦略翻訳 ②役割再定義 ③行動プロセス設計 ④実践・反復 ⑤マネジメント実装である。興味深いのは、いわゆる「研修」が登場するのは④だということだ。
まず、経営の言葉を現場の言葉に翻訳する。次に、戦略実現のために一人ひとりの役割を再定義する。その役割を、いつ、どこで、何をするのかという具体的な行動へ落とす。そのうえで初めて、必要な能力開発を考える。さらに、研修を一度行って終わりではなく、現場で実践し、フィードバックし、再実践する。そして上司の問いかけ、評価、支援といったマネジメントまで変えていく。
人材育成の現場では、どうしても「どんな研修をやるか」から議論が始まりやすい。しかし、その前に「どんな戦略を実現したいのか」「現場の役割をどう変えるのか」「どんな行動が増えれば戦略が前に進むのか」を明確にする必要がある。研修は目的ではなく、戦略実装のための一つの手段である。
この一連のプロセスがつながったとき、採用、配置、育成、評価は、ばらばらの「人事施策」ではなくなる。すべてが、経営戦略を実現するための仕組みになる。
いま、人事部門が生まれ変わるチャンス
人的資本経営という言葉が広がったことで、人事部門の仕事は増えた。KPIを設定し、エンゲージメントを測り、人的資本開示の中身を作成する。もちろん、それらも重要である。しかし、人的資本経営を「データを集め、指標を開示する仕事」と捉えるのは、非常にもったいない。
本質はもっと大きい。会社の戦略に合わせて組織をつくり、人の役割・行動を設計し、それを実現するために投資をする。この問いに答えることこそ、人的資本経営ではないだろうか。そして、この問いの中心に立てるのが人事部門である。
私は、人的資本経営の広がりによって、人事部門はこれまで以上に経営の中枢に近づくことができると考えている。逆に言えば、これまで通り「経営が決めた戦略を受けて、人事施策を考える」という立場にとどまるのであれば、この機会を十分に生かすことはできない。
人事は、制度を運用する部門から、経営戦略を人と組織へ翻訳する部門へ。研修を企画する部門から、現場の行動変容を設計する部門へ。経営を支援する部門から、経営戦略を実装する部門へ。私は、今回の人的資本可視化指針の改訂を、その転換を進める絶好の機会だと捉えている。
「人事は経営戦略の実装者になれるか?」。
これは、人事部門だけに向けた問いではない。経営者自身にも突きつけられている問いである。人事に、そこまでの役割を期待しているか。そして人事自身は、そこまで踏み込む覚悟を持っているか。
人的資本経営の次のステージは、指標を「可視化」することだけではない。戦略を、人と組織の行動として「実装」することにある。
次回以降は、その実装を阻む「5つの断絶」が、実際の企業の現場でどのように起きるのか。そして、それを埋めるための5つのメソッドを、具体的な事例とともに掘り下げていく。