人的資本開示の義務化から3年。いま求められているのは、単なる数字の羅列ではなく、経営戦略と連動した「未来の物語」だ。投資家の視点を知ることは、人事施策を企業価値へつなげる鍵となる。楽天やNECグループでIRを歴任し、さまざまな有力投資家にインタビューした『有力投資家が明かす「株価」と「採用」に効く人的資本経営』の著者である市川氏に、投資家が人事組織に寄せる「本音」と、これからの人的資本経営について聞いた。
──人事担当者にとって「投資家」とはどのような存在なのでしょうか?
市川:大企業のCHO(最高人事責任者)でもない限り、投資家と直接対話する機会を持てない人事担当者がほとんどです。そのため、投資家に対して「利益を重視し、人をコストとしか見ていない“怖い人”」という印象がある方もいるのではないでしょうか。今回、書籍を執筆した背景には、そうした先入観を払拭したいという狙いもありました。
私がこれまで対話してきた長期投資家たちは、みなさん「人は価値の源泉」と考える方ばかりです。ただ、人事が社員を「守り、ケアすべき対象」と考える傾向にあるのに対し、投資家はあくまで「稼ぐ力としての人材」という視点が
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──人的資本の情報開示が義務付けられてから3年が経ちます。影響をどう見ていますか。
市川:グローバルで活躍する大企業のなかには、人的資本を単なる管理指標ではなく、経営戦略と紐づけて言語化できている好事例が目立ち始めています。こうした企業では、投資家側のニーズと、企業からの情報開示の方針にそこまで大きな乖離は見られません。
一方で、それ以外の多くの企業、特にサービス業や小売業、そして地方企業などでは取り組みが遅れています。海外投資家からの直接的なプレッシャーを受けにくい内需型企業にとって、人的資本開示に注力するインセンティブは少ないのでしょう。グローバル・サプライチェーンに組み込まれていれば、人権遵守や労働環境の改善といった「強制力」が人材投資を促しますが、その枠組みに組み込まれにくい業界であることも背景にあります。しかしながら、こうした業界こそ人手不足が深刻で、AIでの代替も容易ではありません。本来、戦略的な人材投資が不可欠な業種において、人材戦略が開示に反映されていない点を懸念しています。
──有価証券報告書の開示における具体的な課題は何ですか?
市川:「経営方針、経営環境及び対処すべき課題等」と人材戦略に関する記載内容が連動していないケースが散見されます。例えば、経営方針には「AI時代へ対応するためにデジタル投資を加速する」という記載があるにもかかわらず、人材戦略の項目では「女性管理職比率の向上」を強調するといった、一貫性の欠如です。もちろん、女性登用は重要ですが、この記載方法では経営目標を達成するための人材戦略とは言えないでしょう。
こうした事態は、有報の作成が部署ごとに分担され、全体を貫く共通認識が欠如しているために起こります。投資家が求めているのは、個別の数字目標の羅列ではなく、経営戦略と人事施策が一本の線でつながったストーリーなのです。
──人材戦略を経営戦略と連動させるにはどうしたら良いのでしょうか?
市川:経営陣、経営企画、IR、そして人事の各部門が、最上流の戦略において目線を合わせるプロセスが不可欠です。企業としてありたい姿を描き、市場環境を踏まえた成長分野を特定した上で、現状の人的リソースの棚卸しを行い、不足を埋めるための採用・育成計画を導き出す。この一連の流れが欠けたまま「新卒◯名採用」という数字だけを示されても、投資家はその意図を測りかねます。
しかしながら、土台となる中期経営計画が数値目標の羅列に留まり、ビジョンを欠いている場合、人事が独力で整合性を取るのは限界があります。理想はトップダウンの人材ビジョン提示ですが、そうでない場合は、CHOや人事責任者が起点となり、トップや経営企画を巻き込んで、事業戦略立案の段階から食い込んで人材戦略策定を進めていくべきです。
──その場合、人事は具体的に何から着手すれば良いですか?
市川:まずは中期経営計画の進捗を振り返る段階で、「目標未達の背景に、人と組織のどのような課題があるか?」という質問を投げかけることから始めると良いでしょう。例えば、ある事業が予算を達成できなかったとします。単に事業責任者個人の手腕を問うのではなく、インセンティブ・報酬設計の不備か、スキルのミスマッチか、あるいは組織カルチャーの問題か等、仕組みの問題とその解決策を議論することが重要です。
さらに踏み込むなら、経営戦略に伴う「人のリスクと機会」を先回りして特定することです。例えば、未来に向けた成長戦略として「M&Aによる新規事業の開拓」を掲げたとします。その実行のために必要な人材ポートフォリオの定義から、PMI(M&A後の統合プロセス)、人事制度の共通化、挑戦と失敗を歓迎するカルチャー醸成まで、人事が介入すべき領域は多岐にわたります。あらゆる経営課題を「人」の側面から解き明かす姿勢が、人事のリーダーに求められる本来の貢献と言えます。
──2026年3月期から、有報の人的資本開示が拡充されました。押さえておくべきポイントを教えてください。
市川:まず大きな変更点は、記載順序の再編です。これまで「第1⦆企業の概況」に記載されていた「従業員の状況」の項目が「第4⦆提出会社の状況」のコーポレート・ガバナンスや役員報酬の後に移動となりました。投資家は、「業績に対して役員報酬は妥当か」を見た流れで、その方針が従業員へどう波及しているかを確認するので、この順番変更は理にかなっていると言えます。
また、従業員の平均給与額についてはこれまでも必須開示事項でしたが、前年比の増減率も開示の対象となります。持ち株会社制(ホールディングス)の場合は、親会社単体の情報のみならず、主要な事業子会社の開示が求められます。さらに、賃上げの方針についても、考え方を定性的に記載することが求められます。業態によっては正規のみならず非正規も対象です。人材確保のために労働市場で競争力のある水準を目指しているのか、定着率を上げるために物価に負けないベースアップを目指すのかなど、継続的に人材投資をする意思があるかを投資家は注視しています。
そして何より重要なのが、経営戦略と人材戦略の連動を定性的に記載することです。
──これらの開示方針の変更意図は何でしょうか?
市川:最大の狙いは、経営戦略を踏まえた人材戦略の「未来」をより明快に書いてほしいという点にあります。現状の施策や数値を報告するだけでなく、環境変化に応じた経営戦略に基づき、どのような人材を育成・確保し、それがどう収益に結びつくのかという「ストーリー」を未来志向で示すことが求められています。「我が社は従業員を大切にします」といった、事業継続のためのリスク回避の観点だけでなく、企業の「稼ぐ力」を最大化させるための人的資本投資について、より踏み込んで記載して欲しいですね。
例えば、採用が今後ますます厳しくなっていく環境下で、どう人員を確保するのか、各社の方針は異なるはずです。「報酬設計を見直してハイスキル人材を確保する」のか、「組織文化を変革しグローバル人材を活用する」のか、あるいは「徹底したAI・デジタル投資によって生産性を上げ省人化を図る」のか。自社独自のストーリーに沿った具体策があってこそ、中期経営計画が「絵に描いた餅」で終わらずに、投資家からの信頼を高めることにつながります。
──なかには、開示をためらうような数字があるかもしれません。どう扱えば良いですか。
市川:確かに、現時点の数字が理想的でないこともあるでしょう。しかし、例えばエンゲージメントスコアが前回から下がったからといって開示を見送れば、そもそもなんのためにスコアを調査していたのか、その意義を自ら否定することになってしまいます。エンゲージメントは企業の持続的な成長と競争力を生み出すために欠かせない要素であり、数値はその現状を定量的に示したものに過ぎません。
開示はゴールではなく、投資家との対話の起点です。たとえ現状が芳しくなくても、その要因を分析し、改善のためにどんな手を打つのかをセットで語れば、それは「伸びしろ」であり投資家にとって信頼の根拠になります。人的資本開示を、人事施策が企業価値にどう寄与しているかを問い直すための「きっかけ」と捉えていただきたいですね。
──企業価値につながる人事施策をどのように考えたら良いでしょうか。
市川:あらゆる人事施策は企業価値に影響を与えますが、その「経路」を明確に意識できている人事担当者は果たしてどれくらいいるでしょうか?企業価値を構成する要素は、大きく「成長性」「収益性」「割引率(資本コスト)」の3つに分類できます。
自社の施策がどこに効いているかを整理することが、投資家との対話の第一歩となります。
成長性:成長戦略に基づく施策
成長分野の人材採用・再配置(リスキリング)、経営人材の育成・登用など
収益性:生産性向上・収益構造変革に基づく施策
人材再配置による利益率向上、離職率の低減による人件費効率など
割引率(資本コスト):リスク低減のための施策
従業員のエンゲージメント向上、ガバナンスやコンプライアンスの強化、従業員の安全や健康状態の向上など
(引用:『有力投資家が明かす「株価」と「採用」に効く人的資本経営』p172)
大切なのは、日々大事だと感じている施策を「人的資本投資」として再定義し、対外的に説明し切る力です。例えば、従業員の家族を職場に招待する「ファミリーデー」。仮に投資家から「ファミリーデーは企業価値向上にどう寄与しているのか」と聞かれた際、すぐに回答できるでしょうか?投資家は何も「利益に関係ない無駄なことをするな」と責めているわけではありません。「企業文化への理解を深めた家族に応援されることで、従業員の定着率を高め、人材流出という経営リスクを低減させている」と言語化できれば、それは立派な投資合理性になります。
パーパスの浸透も同様です。人事はパーパスの価値を自明のものと捉えがちですが、その価値を外部にフラットに説明できる準備が必要です。「理念への共鳴が心理的安全性を高め不正を防ぐ組織文化を醸成し、長期的な企業価値に貢献します」と説明できればまずはそれで良いのです。先進的な企業では人的資本投資の定量的な効果を測る試みもありますが、その第一歩として普段から自分たちが行っている人事施策と企業価値とがどうつながっているかを意識することが、事業成長に貢献できる人事になるためのポイントです。
──人事部門のトップはもちろん、現場担当者の意識付けも重要ですね。
市川:その通りです。人事責任者が経営との連動を意識するだけでなく、採用や教育の現場担当者に対しても「なぜこの事業を伸ばすのか、そのためにどんなスキルが必要か」を腹落ちさせるプロセスが欠かせません。目的の共有がなければ、現場の業務は単なる「タスク」になってしまいます。
また、実務レベルでは、有報の原案を現場のマネージャー層が起草するケースも多いため、彼らの意識変革は、戦略と連動した質の高い開示を実現する上でも避けては通れないステップと言えます。
──最後に、次世代の経営を担うリーダーや人事責任者の方々へメッセージをお願いします。
市川:「人の力・組織の力」は、日本企業がまだ活かしきれていない最大の潜在能力です。同時に、人口減少が進むいま、磨き続けなければ枯渇しかねない資源でもあります。この力を引き出せるのは、経営の視座を持った人事だけです。現場のオペレーションに留まらず一段高い視座を持つために、投資家の視点もぜひ意識していただきたいですね。
投資家が「投資したい」と心動かされる会社は、働く人にとっても魅力的な場所であるはずです。投資家目線を意識することは、結果的に人材採用にも良い影響が生まれるでしょう。「投資したくなる会社」は「働きたくなる会社」でもあるのです。